aphrodisiaque
虹色に煌めくメガストーンを填め込んだメガネをかけた男が、靴の音を高く鳴らしながらマグマ団のアジトを足早に歩いて行く。
「……はぁ……っ!」
マグマ団リーダーのマツブサは、大きく息を吐き出した。
普段から険しい表情をしている彼だが、いつにも増して眉間に深いしわが刻まれていて、何かに耐えているような表情が浮かんでいる。口から漏れた荒い息は、急いで歩いているからだけではない。
「お疲れ様です! マツブサ様!」
迫る足音に気がついたしたっぱが、マグマ団特有のポーズに姿勢を変え、リーダーに道を譲る。
「ああ……っ」
真面目なしたっぱに声をかけられた際の返事も、何故だか苦しげだった。
「っ……これは……」
思わず出た独り言すらも、いつもとは違う熱を孕んでいる。
マツブサ自身、アジトに到着する前から体調が緩やかに変化していることを自覚していた。身体の内側がじわじわと燻っていくような、不思議でありながら非常に覚えのある感覚。そして、その燻り続ける熱は、身体の中心へと移動していく。
身体だけが勝手に興奮しているのだ。しかも、性的に。
計画の達成だけを目標に歩み続けた反動であろうか、近年感じたことがないほどの性欲に意識が侵食されてしまう。突如湧き出た性熱によって蕩けてしまいそうな己を、理性で律し続けていた。
「お帰りなさいませ、リーダー。お疲れのところ申し訳ないのですが、こちらを……」
「すまないが、明日にしてくれ」
「あっ! はい、わかりました」
報告用の書類を持った女性したっぱの話しをにべもなく簡潔に断った。マツブサのただならぬ雰囲気を感じ取り、女性したっぱも素直に引き下がる。
マツブサは、出来る限り女性を視界に入れないようにしていた。自らの組織に所属している部下であり同志を、そういう目で見てしまいかねないからだ。
アジトの入り口から自室への長い道のりを歩ききり、ここより先はワープパネルを乗り継ぐだけの所までようやく辿り着いた。これより先にはマツブサの自室しかなく、団員とすれ違うことは少ない。安堵の息を吐き出したところで、
「……おかえりなさい……リーダーマツブサ……」
今一番会いたくない部下の声を耳が捉えた。
聞き慣れた気だるそうな声は意図せず彼の頭で反響する。脳が部下――カガリの姿を結んだその瞬間、ぞくりとしたものが背中を駆け抜けていった。
「ああ」
ややうつむき気味の視線を上げずマツブサは一言だけ返答し、彼女の華奢な足元だけを見て通り過ぎた。
トランジスタグラマーな身体の曲線と短いタイトスカートからすらりと伸びた脚を思い出してしまい、一人煽られる。
カガリの顔を、姿を見てはいけない。この状態で彼女と長く対峙するのは得策ではないと、なけなしの理性が警告を発していた。
「……」
マツブサが成し得なかった計画を一人でやり遂げようと暴走した彼女が抱く想いの深さを知り、事件以降は少なからず意識をしていた。ただその持った意識が恋情なのか親心なのかは、マツブサ本人ですらはっきりと分かっていない。
マツブサがワープパネルに乗り、その身体が回転し始めたとき、
「リーダー……っ!」
カガリの焦ったような声が聞こえた。
* * * * * *
「……!?」
見るからに様子のおかしいマツブサが横を通りすぎたとき、ふわりと香った匂いにカガリは思わず振り返った
「リーダー……っ!」
呼びかけたマツブサの姿はワープパネルから消え、焦るカガリの叫び声は廊下に虚しく響く。
帰宅したマツブサにいつもどおり声をかけたカガリであったが、彼は視線を一切合わせようとしなかった。いつもならば、腰で後ろ手を組み、背筋を伸ばし凛としているのに、今日は姿勢も歩くリズムですらも何故かバラバラだった。
明らかに避けられている――。何かやらかしてしまったかとカガリは思考を巡らせていたが、彼から感じ取った香りに思い当たる節があった。それは可能性の一つ。だが、彼女の考えていることならば、早々に確かめなければならない。
カガリは疑惑の人を追いかけるようにしてワープパネルに飛び乗る。侵入者に対する足止め用に作られたマグマの通る部屋のパネルは、リーダーの部屋に直接つながるように操作して道を急いだ。
ヒールの音を響かせカガリが駆け込んだマツブサの居室に姿はなかった。隣の巨大モニターが設置されている部屋も同じくもぬけの殻。
彼女にとって、この部屋の様子は予想済みだった。脇目も振らず、帆掛け船の模型が置かれた棚の後ろの壁に手をつく。そして、ほぼ壁と一体化した隠し扉を開けるためのスイッチに触れる。が、当然開かない。それもまた想定内で、カガリは声の限り叫んだ。
「リーダー! リーダーマツブサ!」
この壁の奥には隠されたリーダーの寝室がある。これも侵入者対策で、睡眠という一番無防備な状態のリーダーを守るためにホムラが設計した。その部屋には緊急脱出用のワープパネルがあり、万が一のことがあってもマツブサを喪わないように対策が立てられていた。
ちなみに、幹部の部屋はドアのない廊下から一続きの部屋になっている。カガリの部屋に至っては、廊下から丸見えの場所にベッドを置いてあるため、防犯の観点からも移動した方がいいと、ホムラに苦言を呈されていた。
「カガリ……。私は体調が思わしくない。用があるなら明日聞く」
寝室への扉が開くことはなかった。カガリは壁に耳を付け、迷惑そうに紡がれている声を聞き取る。
「……っ!」
カガリの予想が確信へと近づく。これは早めに対処しなくてはいけない事態である。対応が遅れると取り返しの付かない、大変なことになってしまう。
「仕方……ない……!」
カガリは踵を返した。
ワープパネルを乗り継ぎ、廊下を駆け抜けて自室へと向かう。いつもゆっくりと身体を左右に揺らしながら歩くカガリが走る姿を、研究員が驚いた顔で眺めていた。
ベッドとパソコン、机とマグマ団の旗しかないシンプルで殺風景なカガリの部屋には、マツブサの寝室へとつながる秘密のワープパネルがあった。
隠し持っていたそれは、アジトで使っているものよりも幾分小さい。元々テスト品であり転送量の制限はあるものの、狭い場所にも設置することが出来る。これと対になるパネルはマツブサの寝室の壁の中にこっそりと置いていた。
あらゆる年代のマツブサの写真を集める彼女が、彼の寝顔を撮るためだけに繋いだのだが、無性に顔が見たくなったときなどにも、こっそりと利用している。
早速ワープパネルに乗り、暗い壁の内側へと転送されたカガリ。部屋の主がベッドに横になったとき、ちょうど顔が見える位置に作った引き戸に手をかけてほんの数センチだけ開き、彼女は室内を覗き込んだ。
「っく…………んんっ、はぁ……ぅぁ……!!」
カガリの目に最初に見えたのは、薄暗い部屋でベッドに座り込んだマツブサの姿だった。
熱っぽい吐息が混ぜ込まれた途切れ途切れの声と、粘着質の音が部屋の中に響いている。うつむき気味の顔は、長めの髪に邪魔をされ見えない。
足の間で忙しなく上下に動く手を見、いけないと思った瞬間、カガリは引き戸を思いっ切り開けた。狭い覗き扉を小柄な身体を活かしてなんとか通り抜け、部屋へと飛び込む。
「リーダーマツブサ! イっちゃ……ダメ……!!」
「んんっ!? カ、カガリ!? なぜここに!? 鍵かけてあったはずだが……!」
突如乱入してきたカガリに驚きを隠せず、マツブサのメガネがずれる。だが、手慣れた様子で手早く位置を直し、足元にあった毛布を引き寄せて、露出されていた下半身を覆う。
だが、そんなことなどまるでお構いなしにカガリはベッドに膝を付いて、自慰に耽っていたマツブサの肩を掴んで自分の鼻を彼に寄せた。
「……」
「カガ……リ!? 近っ……近いのだがっ……! 離れ……」
唇が触れてしまいそうな程の近さにどぎまぎするマツブサ。突拍子のない行動をするカガリを押しのけようとしても、さっきまでその手で自分自身を握っていたのもあり、触れるのが憚られる。
しかし、何故彼女は来てしまったのだろう。せっかくあの場をやり過ごし、性欲処理を行っていたのに、これでは――と、彼は頭を抱えた。
「リーダー……もしかて……食べた? コーヒーゼリー……。冷蔵庫にあった……」
確認が終わったのか顔を離したカガリが首を傾げて問いかける。部屋に漂う男精特有の匂い中からコーヒーの匂いを感じ取った。この質問は、予想を確信に近づけるためのものだ。
「コーヒーゼリー? ああ、出かける前に食べたが……あれはお前のものだったのか?」
どんどんと近づいてくるカガリから少しでも離れるために、仰け反り気味になっていたマツブサが記憶を呼び起こす。
外出前に小腹の空いたマツブサが食堂に立ち寄り、調理担当に貰ったものがコーヒーゼリーだった。
マグマ団の食堂にある業務用の冷蔵庫は、団員誰でも使えるようになっている。私物には名前を書くことで識別をし、それのないものは誰が食べてもいいルールとなっていた。そのコーヒーゼリーには記名がないことから調理担当が出したのだ。例えそれがカガリのものであっても、ルール上は問題ない。
ただ、彼女が楽しみにしていたのであれば、食べてしまった手前申し訳ない気持ちになる。
「うん……。ううん……」
カガリは曖昧に答え、何かを後悔するような表情でベッドを下りた。
「とっ、とにかく確認が済んだのなら出ていってくれ。私はもう眠……!!?」
無闇に近づいたカガリが離れたことにマツブサはほっと一息つく。ベッドに腰掛け、再度顔を上げた先の部下の姿に目を見開いた。
「ボクがそれ……何とかします……!」