◆1.食べ物を粗末にしてはいけません。
「いくらうちの住人が多いっても、これは多すぎだろ……」
そう智樹は独り言を言いながら、手に持ったビニール袋を覗き込む。
袋の中には、大量の果物が詰まっていた。
帰宅途中の商店街を通りかかったとき、八百屋のおいちゃんに半ば無理矢理渡されたものだ。
その大半は傷み始めていて、いわゆる見切り品を押しつけられた形だ。それがビニール袋二つ分。季節柄と痛みやすさからかイチゴが主で、大分黒くなったバナナや柔らかくなったみかんなどが入っている。
「んーまあ、イカロスがなんとかしてくれるか!」
よいしょと、袋を持ち直し、智樹は再び歩き始めた。
桜井家の家事を一手に担うイカロスの料理の腕は、出会った頃に比べるとかなり上達している。最初の頃は、転送カードを使っていたようだが、包丁の使い方を覚え、調味料の組み合わせを覚え、レパートリーも和洋折衷……今では一流の料理人と肩を並べられるのではないかと、彼は思っている。
そんなイカロスは先日、そはらの家の庭で毎年大量に生るはっさくを使い、マーマレードやはちみつ漬けを作った。他にも副菜として、サラダなどにも使い、そはらと一緒にいろいろなレシピ本を見て、チャレンジしているようだ。
一緒に勉強している幼馴染みの料理の腕もそれなりに上がっているようだが、目玉焼きだけはいつまでたっても上手くならず、智樹は首を傾げる。たちが悪いのは、それ以外をあまり作ろうとしないこと。
「……ん?」
不意に智樹は立ち止まった。そして、もう一度袋を開き、中を確認する。
中身は先程と変わらない、甘酸っぱい香りを放つフルーツ達。
「……たくさん……の、果物。これは……あれが出来るかもしれん!!」
思わず叫んだ彼の脳内には、一つの考えが浮かんでいた。
マンガやグラビアなどでは見たことがあるものの、実際に目にかかる機会はほとんど無いシチュエーション。言ってしまえば、男のロマン。
それが、押しつけられた見切り品とほんの少しの追加材料で実現出来るかも知れない。
「そうと決まれば、早速材料集めじゃ!」
俄然燃えてきた智樹は、両手に持っていた袋を片手でまとめて持ち、踵を返して商店街へと走り出した。
「ただいまー」
普通に帰ってきた風を装っているが、浮かれた声を隠しきれていない。
問題なく材料も集められ、どのようにするかも考えている。ではそれを、一体誰で試そうか考えながら、帰ってきた。
「ふはえひー」
「……お前な、口にもの入れたまま喋んな」
その浮かれた彼の心に水を差したのは、出迎えたアストレアだ。
はちみつの瓶を抱え、切ったパンの耳を浸して食べている。
そのはちみつは、美香子から貰った一瓶数千円する高級はちみつなのだが、彼女にはその価値は当然わかっていない。パンの耳は、商店街のパン屋の前で涎を垂らしながら凝視していたら、見かねた店員が内緒で渡してくれた。
智樹が眉間にしわを寄せながら苦言を呈し、アストレアの横を通りすぎる。
「しょーがないじゃない。ちょうど食べてたときに帰ってきたあんたが悪い!」
食べていたパンの耳を急いで咀嚼し飲み込み、彼女は言う。
「はいはい」と、いつもどおり軽くあしらいながら、居間を覗き、台所にも行ってみる。そのどちらにも、他にいるはずの二人のエンジェロイドの姿はない。
「まあいいや。イカロスやニンフは出かけてるのか?」
「うん。夕食の買い物だって。しょーもーひんも買ってくるから、そはらさんと一緒に遠いお店まで行くっていってた」
新しいパンの耳を取り出し、黄金色が美しいはちみつをたっぷりと付けて口へと運ぶアストレア。
「ニンフも?」
「チラシ見てて、好きなお菓子が安いからって付いていった」
イカロスとそはらが共に買い物に行くのはいつものこと。しかし、そこにニンフが付いていったのは何故かと思った智樹は理由を聞いて、なるほどと頷いた。地上のお菓子を愛好する彼女が同伴する、納得の理由だった。
「で、お前は何で残ってんだ?」
◆2.あずゆーらいく♪−研修編−
とあるとてもよく晴れた日。時間は午後三時をまわった頃。
校内の木陰でパラソルを広げ、五月田根美香子は一人静かなアフタヌーンティーを楽しんでいた。
黒服の男を背後に従え、ここが学校であることを忘れさせそうな雰囲気を醸しだしている。
「……」
そんな彼女を発見した、エンジェロイドのイカロスが立ち止まる。
イカロスの存在と視線に気がついていながら、美香子は目を閉じてカップに口を付ける。今日の紅茶はなかなかうまく入れられていた。
二人、そのままの体勢でしばらくの時間が流れた。
カップに入っていた紅茶を飲み終え、ソーサーへ戻すと接触音がカチャリと小さく響く。
「どうしたのぉ? 立ってないで、こちらへいらっしゃい〜」
美香子は視線を上げずにそう言った。
近づくか否かの判断がのつかなかったイカロスだったが、彼女の言葉に誘われて、近づいていく。
黒服の男が美香子の対面にある椅子を引き、席を促す。招いた美香子は空のティーカップを乗せたソーサーをイカロスの前に置いて、ティーコゼの中からポットを取りだした。
「なにか悩んでるみたいねぇ……」
ゆっくりとカップへ注がれていく琥珀色。保温されていたため、紅茶はまだ湯気を立てている。
「あ、あの……」
イカロスが思案し、戸惑うには訳があった。
分からないことを聞く場合は、まずマスターである桜井智樹(じぶん)か空美町一の天才と言われる守形英四郎にしろ───そう、智樹に釘を刺されている。
美香子も英四郎に勝るとも劣らない優秀さを誇るが、彼女の耳に入れると大抵自分にとって碌なことが起こらないと、智樹は考えている。
ある疑問を持ったイカロスだが、今回ばかりはマスターに聞くことが出来ず、言いつけどおりに英四郎を探していた。しかし、その前に黒い悪魔に遭遇してしまった。
「なあに〜?」
ポットにティーコゼを被せて、砂糖の入った瓶をイカロスが取りやすい位置へ移動させる。
「『お医者さんごっこ』ってなんでしょうか?」
意を決して、イカロスは言った。
一瞬、美香子の表情が驚きに変わった。しかし、すぐにいつもの微笑みになる。
「……それをどこで知ったの〜?」
「昨日、マスターが寝言で。やってみたい……と」
エンジェロイドは眠ることが出来ない。智樹が寝ている間、イカロスはその傍らに座り、危険がないか見守っている。当然、寝言を聞いたりするのだが、今回彼女が知らない単語が出てきた。
「やってみたい」というのだから、何か行動することだろうと見当を付けてはいる。
出来る限り、マスターの願いは叶えたいイカロスだが、知らないことをすることは出来ない。間違えると智樹に叱られたりもするため、出来ればこっそり勉強をしたいと思っていた。
「そう〜」
相づちを打ち、美香子はイカロスのティーカップへ砂糖を一杯入れた。シュワシュワと砂糖が溶けていく。
「まず、お医者さんというのは、病気になったり怪我をしたりしたときに診断して、治療してくれる人のこと。そのお医者さんには、とぉっても頭が良くなくちゃなれないの〜」
話しながらティースプーンで撹拌する。
「そんなお医者さんを真似る『お医者さんごっこ』はねぇ、古くから伝わる高度な遊びよ〜」
完全に溶けたことを確認し、改めて悩めるエンジェロイドへ提供した。
「確かに〜桜井くんが興味を持つのも頷けるわぁ」
「それはどうやったら……!」
◆3.あずゆーらいく♪−実践編−
桜井智樹はとても幸せな空間にいた。
淡い色をしたふわふわと優しく暖かい場所で、布の極端に少ない、けれども、大切な場所はしっかり隠した服を纏う女の子達に囲まれている。
一糸まとわぬ彼を抱きしめようと、我先にと腕を差し出してくる。そんな状況に智樹は笑みを浮かべて、身を任せていた。
抱きしめてくる女の子は柔らかく、良い香りがする。可愛い女の子達に引っ張りだこにされる事を拒むなど、智樹に出来るはずがない。
「あは〜ん、つかまえたぁ〜」
「やあ〜ん、つかまっちゃったぁ〜」
一際胸の大きな女の子に抱きしめられ、智樹は困った表情を浮かべつつも、その胸に顔を埋めて、顔を左右に振る。
「やぁ〜ん、くすぐった〜い」
まんざらでも無さそうな女の子の声色に、智樹はそっと胸に手を触れさせてみる。
「だぁめ。もう、イタズラなんだからぁ〜」
そういうと、女の子は智樹を胸元に更に埋め、上下に擦り始めた。そう、全身でパイズリをされているような。
「おうふっ! これっは!! ふっ……新し……!!」
上下運動は激しさを増し、甘い快楽が若干の息苦しさと共に智樹の全身を走っていく。同時に下半身に熱が溜まる、ひどくリアルな感覚に襲われた。
「っ、ふっ……あ、ぁぁ、あ!?」
自分から発せられた声と、下半身を包む生々しい感覚に智樹は目を覚ました。
◆4.永遠に永遠に星の夢
時間はすでに午後九時をまわっていて、外を出歩く人影はない。もとより、住人が少ない小さな町。この時間になってしまえば、皆自宅で明日の準備をしたり、床につく支度をしている頃だ。
柔らかな光を放つ月は空の西側に大分傾いていて、小さな星々が瞬いていた。満天の星空を見ることが出来るのは、この空美町の長所であると言える。
そんなことを思いながら、守形英四郎は本来この時間ならば、閉じているはずの大きな門をくぐる。
空美町を離れた後、足として使っている大型バイクをその門の横に停めた。
長い年月を刻んできた門構えの先には、同じように歴史を持つ屋敷が佇んでいる。そこへと向かって歩みを進めるが、どうにも足取りは重い。しかしながら、自身の無実を訴えるため、召喚に応じた。
それでも、距離は永遠ではない。一度うつむいて小さく深呼吸をし、玄関の引き戸を開けた。
「どの面下げて来るかと思ったのだけど〜」
「……すまん」
英四郎が引き戸を開けるやいなや、かけられた言葉に謝罪の言葉がついて出た。
彼の来訪を待ち侘びていたかのように、淡い色の浴衣を着た五月田根美香子は玄関に立っていた。
美香子は腕を組み、いつもどおりの微笑みを浮かべている。しかし、放たれている雰囲気は異常に冷ややかだ。
長い間一緒に過ごしてきた英四郎も、ここまでの殺気に近しいオーラはそうそう感じたことはない。無意識に、恐縮してしまう。
「とりあえずは、『おかえりなさい』〜」
「…………ただいま、戻りました……」
小首を傾げた美香子はそう言い、英四郎に背を向けて、廊下を歩き始める。その後ろを、
「お邪魔します」
軽く頭を下げてから玄関を上がり、追いかけた。
最近は忙しくほとんど戻れなかったが、年に数度、英四郎は空美町に里帰りをしていた。実家との確執は解消していないため、美香子への報告と顔見せをかねて、五月田根家へ帰ってきている。
だが、今回は違う。
必要がなければ連絡すらしてこない美香子が電話で「帰ってきて〜」と、ただ一言発した。
電話越しにも伝わってくる恐怖心に近い何かを感じ取り、急遽帰ってきたのだ。帰らなければ命が危ない───との危機感もあった。
黒服の五月田根の若い衆とすれ違いざまにされる挨拶を、英四郎はそれとなく返していく。
「夕食は〜?」
美香子は、振り向かずに歩きながら問いかける。
「ああ、食べてきた」
現在英四郎は花美町に活動拠点を置いている。底での下宿先である秋風荘で、管理人の少女───こすもすが作ったハンバーグを食してきていた。
「なら、お風呂ね〜? 荷物はいつもの部屋に置いておくから〜」
曲がり角に差しかかった美香子が立ち止り、振り返る。そして、後ろを歩いていた幼馴染みに向かって手を差し出した。
五月田根家は広い日本家屋で、複雑に廊下が入り組んでいる。右にある廊下を行けば、幾つかあるうちの大浴場へ。このまま真っ直ぐ行けば、美香子の私室と英四郎がここを訪れたときに使っている客間がある。
「いや、しかし……」
「いってらっしゃ〜い」
美香子の意図が分からず、食い下がろうとするが、彼女はにこやかに彼を圧倒させた。
「……いってきます」
そう言って唯一の荷物であるリュックを手渡し、廊下を曲がった。