どきどき湯けむり道中記




 夏の暑さもとうに過ぎ、空気が冷たくなってきた晩秋。葉の色を変える木々も、少しずつその姿を赤や黄色に染めつつある。そう言っても、時の進むまま日々を過ごしているたちにとって、それらは僅かな変化にしか感じないのだろう。
 新大陸発見部の部室は、平和を乱す元凶と言える場所だが、桜井智樹にとっても居心地がいいと思える。それに呼応するように、彼の幼馴染みである見月そはらもいる。もちろん、イカロスやニンフ、アストレアもいて、それなりの大所帯だ。
 がらり、と開く部室唯一の出入り口。その音に部屋の中にいた全員が視線を向けた。

「よかった〜、みんな揃ってて〜」

 独特の間を持つ声で嬉しそうにいいながら入ってくるのは、生徒会長を務める五月田根美香子だ。英四郎の幼馴染みであり、彼にこの部屋を提供した張本人。
 智樹たちと挨拶を交わしつつ、窓に面したテーブル……英四郎の指定席まで彼女は足を進める。

「どうしたんですか?」

 美香子が入ってきたときの言葉を考慮し、その背を少しだけ追ったそはらは問う。

「今度の連休に温泉に行かない?」
「「温泉!?」」

 いきなりの提案に、智樹とそはらは驚きの声を上げた。

「はいっ! 温泉ってなんですか!」

 どこで取ったか分からないきのこを食べていたアストレアが手を勢いよく挙げて、質問する。

「いつだったか、かいちょーが掘り当てた外にあるお風呂のことでしょ?」
「さすがニンフちゃんね。だいたい正解よ〜」

 美香子は以前暇だと称し、山奥で温泉を掘り当てていた。特別な機器を使わず、自らの直感のみで温泉の在処を見つけたのだ。その温泉も綺麗に整備され、時折入りに行っている。

「いきなりだな」

 椅子に座ったまま、英四郎は美香子を見上げるような感じで話しかける。美香子もまた彼に顔を向けた。

「そうなの。先方の『ご厚意』で、お父様が招待されたの〜。それで家の者たちで行こうとしたのだけど〜……急な『お仕事』が入りそうだから、私たちでどうだろうって」

 「ご厚意」と「お仕事」を無駄に強調して美香子は言う。それに気が付き、若干恐怖した智樹であったが、あえて何も言わなかった。任侠道(セレブ)である五月田根家の「お仕事」など、想像するまでもない。その「ご厚意」でさえ本当に厚意なのかも怪しい。
 しかし、強さが全ての五月田根家はイカロスに一目置いている。新大陸発見部をまとめての招待だが、彼女に対するもてなしの気持ちの可能性もある。そう智樹は思うことにした。

「行き先は?」
「ここの温泉郷ね」

 智樹がうだうだと考えている間に、英四郎と美香子は地図を広げて場所を確認し始める。英四郎が最初に出したのは空美町近辺だったが、美香子がさらに広げ、目的地を指差した。

「……ふむ。空見町から電車で数時間といったところだな。それとも、車を出すのか?」

 問われた美香子が軽く首を横に振る。

「やっぱり、旅行と言えば電車でしょう〜?」
「いいですね、温泉旅行!!」

 地図を一緒に覗き込んでいたそはらが同意を示すと、美香子は更に笑顔を深くする。

「昔ながらの温泉郷だし、部の合宿旅行くらいにはなるんじゃないかしら〜?」
「ちょーっと待ったぁ!!」

 いきなり智樹は叫んだ。視線がそちらへと集中する。
 このままだと旅行へ行くことになりかねない。智樹とて、温泉への魅力を感じなくはない。
しかし、問題がある───それゆえの制止だった。

「確かに、たーしーかーに! 温泉は魅力的ですが、こいつらどうすんですか?」

 智樹が示した方向には、スイカを抱いたイカロス、半ば奪い合いつつお菓子を食べるニンフとアストレアがいた。
 そう、智樹の心配はこのエンジェロイド三人娘だ。人間であるそはらたちはともかく、彼女らが同行するとなると、絶対にトラブルは避けられない。
 しかし、そんな智樹の心配は他の三人には伝わっていないようで、ただイカロスたちを見ていた。

「こいつら羽生えてるんスよ! 羽!」
「ああっ! そっかぁ、もう普通のことだから、すっかり忘れてたよ」

 はっとしたものの、そはらの反応はとても薄く軽い。彼女の言葉で、誰もが「ああ」といった表情になる。

「ゆるい空見町だからふっつーに過ごしてますけどね、一歩外に出たら異常ですよ、異常!」

 指を差したままの腕を上下に揺らしながら必死に訴える智樹に、ニンフが反論する。

「それなら心配に及ばないわ、トモキ。私の羽は不可視に出来るし、アルファーの羽は小さく出来るわよ」

 そう言いながら背を向け、背中の羽を消してみせる。肩胛骨辺りに不自然な袖が残るが、一見では人間と同じだ。
 イカロスとニンフの制服には、羽を出すための袖が付いている特別仕様なのだ。すっかり受け入れられた最近では、イカロスは羽を最小化し、ニンフは羽を消さずに過ごしていた。
 ニンフの言葉にイカロスはこくこくと頷きながら、口を開く。

「……でも、アストレアは」
「……あ」

 「しまった」ニンフの顔にはそう書いてある。ゆっくりとアストレアの顔を見て、動きを止めた。当のアストレアはほとんど話を聞いていなかったため、口を動かしたまま不思議そうな顔をでニンフを見返した。

「アストレアの羽は小さくならないのか?」

 英四郎がアストレアに問いかける。

「はい! 私のはイカロス先輩みたいに可変式じゃないですし、ニンフ先輩みたいにジャミング能力もありませんから、このままです!」

 文字通り、そのこぼれんばかりの大きな胸を張って答えた。そこは胸を張るところと違うだろ……と、智樹は思う。
 美香子は少し傾げた頬に手を置きながらアストレアに近づき、その翼に触れる。

「……大きいわねぇ」

 加速と機動力に重きを置いた純白の翼。電算制御が積まれていない彼女にとってそれが誇りでプライドだと思うのだが、今回ばかりは少々問題だ。

「守形くん。アレ、まだあるかしら?」

 同じように何か対応策はないかと思索していた英四郎。「アレ」とだけ言われて何のことかと思ったが、一つ見当が付いた。

「アレか……。まだあったと思うが……」

 英四郎はそう呟いて立ち上がり、荷物が積まれた棚の上部に手を伸ばした。埃の積もった段ボール箱を降ろし、軽くはたいて中身を物色する。その間に美香子は、目隠しとなるような衝立を部室の隅に立てていた。
 奇妙な二人の先輩の行動を智樹たちはただ見守るしかない。
 二つ目の段ボール箱から、ごっそりとした布を発見した英四郎はそれを持って、衝立の中に入っていく。衣擦れの音がし、「そう、これよ〜。守形くん、似合ってたわよねぇ〜」と声が漏れ聞こえていた。

「アストレアちゃん、ちょっとこっちにいらっしゃい」
「はーい、ししょー」

 衝立からひょっこりと顔を出した美香子に呼ばれ、英四郎と交代するようにアストレアが中に入る。何故かアストレアは美香子を師匠と仰ぎ、彼女の行動に何の疑問も持たない。端から見ていれば、怪しさしかないのにも関わらず、だ。
 英四郎も何も語ろうとせず、さっきの定位置に戻る。

「やっぱり胸元がきびしいわねぇ〜……」
「やっ……ししょぉ……、これ大分無理矢理ですって……ぇ!」

 薄い布を張っただけの衝立越しに聞こえてくる、美香子とアストレアの会話。内部ではどうなっているのか分からず、想像だけが刺激される。
 しばらくして、勢いよく衝立が開いた。

「どうでしょう!」

 青色をベースにした中世ヨーロッパ風のドレスを着たアストレアが、何故か自信満々の表情で立っていた。

「どうでしょう! って堂々と聞くレベルじゃねぇっ!!」

 後から出てきた美香子はにっこりと笑っていった。

「羽と服と合わせて一種のファッションにならないかしら」
「ならねぇっ!」

 切れの良いツッコミを二回も入れた智樹は、派手に肩で息をする。もうこれはノリツッコミの域だ。
 そんな智樹をよそに、そはら達の受けはよいようで、「可愛い」などと言っていた。なにやら楽しそうな雰囲気に、今智樹の身体を支配する疲労は一体何だったかと自問する。

「ふふっ。アストレアちゃんの問題は後回しにするとして、旅行行きたい?」

 微笑みを絶やさず美香子は全員に問うた。旅行に行くのなら、うなだれている智樹も含めて、全員の同意を取りたい。

「行きたいです! みんなで行ったらすごく楽しいことになりそう!」
「最近退屈してたし、行ってみたいわ」
「私も私もー!」

 そはらとニンフ、アストレアが賛同する。アストレアに至っては、背中のファスナーが締まっていない不安定な状況で、手を挙げて跳ねていた。

「イカロスちゃんは〜?」
「私は……マスターが、行きたいと仰るなら……」

 消え入りそうなイカロスの声。彼女の視線を後頭部に感じた智樹はゆっくりとした動きで、顔を上げた。イカロスの表情は読めない。

「……旅館とか……」
「旅館の別館をまるまる貸し切ってるの〜。他のお客様とは、ほとんど会わないと思うわ〜」

 回転が極端に悪くなった頭から、問題になりそうな事柄を出す。美香子からの回答は行かないという選択肢を与えない。
 しかし、視線が智樹に集中している今。旅行の諾否の決定権はまるで智樹にあるように思えた。本来それがあるのは座ったまま何も言わない新大陸部部長である、英四郎だろうに。

「ま、まぁ…なんの問題も起きなければ……」

 イカロスから視線をそらしつつ、頬をかきながら、智樹は自分の答えを出した。
 長い時間を過ごすであろう旅館で一般人と隔離されているのであれば、問題は大分減るはずだ。

「今回の旅行についての部員の総意は、行きたい……よ。どうする?」

 英四郎は眼鏡の橋を押し上げ、一言だけ言った。

「異論はない」

 知れず張り詰めていた部室の空気が、わぁ、と軽くなる。
 急遽出来た新しい予定に、笑顔になるそはらとニンフ。彼女たちと一緒に喜ぼうとしたアストレアはドレスの裾を踏み、派手に転んでいた。アストレアを起こしてやったイカロスもどこか嬉しそうに、頬を赤く染めていた。

「じゃあ決定〜。旅行の詳細はまた明日以降にね〜」