風待ちの月
歴史ある氷帝学園にも他の学校と同様に「七不思議」と呼ばれるものがある。
音楽室に飾られているベートーベンの目が光るだの、夜中に人体模型が特別教室棟を駆け抜けるだのという、いたってポピュラーで王道の七不思議だ。
しかし、一つだけ特殊なウワサ話がある。
基準服のジャケットの左ポケットに、いつの間にかゼンマイが入っていたら、右ポケットに入れておく。そうすると、持ち主が望む幸福を招き、その後、ゼンマイは気づかないうちになくなってしまう。
これは「幸運のゼンマイ」という名称で、先輩から後輩へと代々伝わっている。
実は、これに通じるものがまだあるのだが、それはまた後の話。
× × × × ×
「あれ?」
部活終了後の自主練習を終え、部室へ戻ってきたときに日吉が初めて聞いたのは、鳳の疑問を含んだ声だった。その声に暇を持て余していた向日と宍戸が近づいていったが、日吉は興味なさげに通り過ぎ、自分のロッカーを開けた。ソファにはジローが忍足の足を枕に眠っていた。
「あのですね、こんなのがポケットに入っていたんです」
「なんだー?」
「何かのゼンマイだな。家の時計とかじゃねぇの?」
「ゼンマイ」という宍戸の一言に、背を向けて着替えている日吉が微かに反応する。
氷帝テニス部の部室は他校のそれより広いだろうが、何の遮蔽物がなければ話し声は聞こえてしまうものである。けっして、聞き耳を立てていたわけではないと日吉は思う。
「確かに家にもゼンマイ仕掛けの時計はありますけど、形が違うんですよね。どこで入ったのかなぁ」
「ん!あれじゃね!? 『幸運のゼンマイ』ってヤツ!」
向日が氷帝に伝わる不思議なウワサ話を口にする。「気づかない内に入っているゼンマイ=幸福のゼンマイ」という、公式が彼の中に成り立ったようだ。
「せやけど、それは単なるウワサやろ?」
ジローがぐっすりと寝ているためか立ち上がれない忍足は、相方へ少し離れたところから話しかける。
「しらねー。けど、それがここにあるってことは、本当なんじゃねぇの。鳳!それ、右のポケットに入れとくと、幸せになれるんだってよ」
向日は忍足の疑問を軽く受け流す。鳳は向日に言われたとおり、「そうなんですか」と、ジャケットの右ポケットにゼンマイを入れた。