清風明月


◆清風明月


 爽やかな春の空気は、夜になるとまだ寒さをはらんでいる。
 晴れわたった夜空の下に広がる庭を、寝巻き姿の少年が一人歩いていた。彼の白い髪は宵の紫を含みながら、闇に溶け込むことを知らない。
 遣り水や島などで古式ゆかしく作り込まれた庭園は、観賞出来るように細い道が作られている。その綺麗に刈り込まれた植木の根元、隠れるように配置された人工的な明かりを頼りに、しっかりとした歩調で進んでいく。

「……骨喰か?」

 何気なく立ち止まり、星空を眺めていた少年──―骨喰藤四郎は、声のした方を振り向いた。
 庭に面した障子が一箇所だけ微かに開き、そこから青年が顔を覗かせている。

「三日月……? そうか、ここは太刀の屋敷か」

 骨喰はそう呟いた。
 本丸にある刀剣男士たちの居住区域は、基本的に刀の種類で屋敷が分けられている。屋敷といえど、個人の部屋と雪隠があるだけの簡素な作りだ。それぞれの屋敷は渡り廊下で繋がり、行き来が可能になっている。それらの建物と廊下が囲っているのは広い中庭で、そこを通れば最短距離で各屋敷へと行くことが出来る。
 骨喰は自分が使っている部屋から庭に下り、辿り着いたのが青年───三日月宗近のいる太刀の屋敷であった。

「こんな時間にどうした。馬当番か?」

 緩やかな笑顔でまだ遠くにいる骨喰に話しかけながら、三日月は広縁へと出てきた。骨喰と同じ寝巻き姿であるが、肩に一枚藍色の羽織を掛けている。

「違う。そうだとしても、まだ早い。あんたこそ、こんな時間に何をしている?」
「なあに、じじいの朝というのは早いものだ」
「そうなのか」

 植木の間から出てきた骨喰の足下で、玉砂利が夜の静寂に馴染みながら鳴く。

「中途半端に目が覚めて、眠れそうになかったから散歩をしていた」
「ほう」
「月でも見れればと思ったんだが……」

 広縁に腰掛ける三日月の隣に立ち、先程まで歩いてきた庭の方を向く骨喰。
 語尾を濁し、顔を上げて空を眺める彼と同じように、三日月も広縁から身を乗り出し空へと目を向けた。
「今宵は新月だったか。残念だったな」
 二人が眺める空には月の姿は一切なく、星々が静かに瞬いているだけだった。
 人里離れた場所にひっそりと建てられた、名刀の付喪神───刀剣男士と審神者のための本丸御殿。自然も豊かに残るこの場所は、遙か昔の彼らが生まれた時代と寸分違わぬ星の明かりを見せていた。

「骨喰よ」

 名前を呼ばれ、三日月の方を向く。すると、彼の指先だけがちょいちょいと自分を招くように動いていた。

「?」
「空には浮かんでおらんが、月が見たいのならば、これでどうだ?」

 悪戯っぽく口元を歪ませた三日月が自分の目を指差す。だが、その仕草と言葉が示す意味が分からない骨喰は首を傾げる。

「……目?」

 彼は頷きつつ、疑問に包まれたままの少年を自分の正面に促し、そっと顔を近づけた。その距離は、少しでも動いてしまえば額がくっついてしまうほど詰まっている。

「どうだ? 何が見える?」
「月だ……。三日月が見える」

 そこまで距離が近づいていることにまったく気がつかない骨喰は、三日月の深い青い瞳の中に金色の月を見つけた。
 弓なりの月の輪郭を浮かび上がらせるその瞳は、まるで小さな夜を湛えているように思わせた。時々彼の瞳が光ると思っていたがこれが原因か、と納得する。

「はっはっは。打ちのけの三日月が瞳に反映されたのであろう。どうだ、満足したか?」
「……」

 おおらかに笑う三日月。しかし、彼の瞳に魅入ったままの骨喰は、ゆっくりとその小さな月へ手を近づけていた。

「これ。さすがに触れるのは駄目だ、骨喰」

 伸ばされていた手は三日月の手によって握り込まれた。優しくではあるが、幾ばくか強い口調で粗相をしかけた少年を咎める。

「すまない。無意識だった」

 戒められた骨喰はハッとし、顔を離した。
 いつもは遠い空に浮かんでいる月が、すぐそばまで下りてきて、触れられるのではないか……そう思った。だが、実際に手が動いていたのには気がついていなかった。
 骨喰の力が抜けた手を、自分の頬に持っていき、触れさせる。

「庭にお前を見たとき、藤の精が俺を迎えに来たのかと思った」
「藤の精?」
「お前の姿は美しく気高い藤の花を彷彿とさせる」

 三日月は目を閉じ、その手のひらに唇を押しつける。柔らかな感触を名残惜しむ様に目を開けば、その様子をただ眺めていた骨喰と目が合った。
 藤の花が持つ色を、彼も持ち合わせていた。
 少し長めの白い髪には紫色の陰影を落とし、汚れを知らない清廉な紫の瞳は月夜の瞳と視線がかち合ったことに驚いて、微かに瞬かれる。

「内番の時、畑から少し歩いた先に藤を見つけたのでな。その花の精だ」
「……サボる前に、道具の使い方をいい加減覚えたらどうだ」

 いい雰囲気になっていたはずが、骨喰のその一言で見事に飛散してしまった。
 確かに、三日月は農具の使い方を知らない。正確には、誰が懇切丁寧に何度も教えようとも、内番の度に忘れている。そのため、本丸にいる刀剣男士たちの間では、覚える気がないのだろうな、ということで一致していた。

「はっはっは。道具は使えぬが、草むしりは出来るようになったぞ。それにサボったわけではない。休憩中だ」

 爽快そうに笑う三日月は握っていた手を離し、骨喰の肩を叩く。

「野性的で力強い藤だった。あれが花をつけたら、相当見事なものになるだろう。俺としては骨喰と共に観たいのだが、一緒に来てくれるか?」

 三日月の瞳を見ていた骨喰もまた、その瞳を彼に見られていると、この時初めて意識した。
 見据えてくる小さな三日月に藤色の瞳は捕らわれ、逃げることを許されず、ゆっくりと静かに頷いた。

「…………ん」
「そうかそうか! よきかな。次に月が満ちる頃には、盛りとなっているはずだ」

 心の底から嬉しそうに三日月は両手を広げ、骨喰の手を握り込む。伝わる彼の手の熱が、どことなく居心地を悪く感じさせた。

「……いかほどぶりの逢瀬か。楽しみだな、骨喰」
「昔の俺は、あんたと藤の花を見たのか?」

 刹那、三日月の手が震えた。今まで発していた喜の感情を弱め、ほんの少し顔を伏せた様子に、聞いてはいけなかったかと骨喰は思う。

「……そうだな。あの頃の藤も、大層美しかった」

 三日月は骨喰の手の温もりを感じながら、遠い昔を思い出していた。
 足利家で出会った二人は、庭で咲き誇った藤の花を愛でた事がある。宝物庫の中で満足していた三日月を、骨喰が引っ張り出したのだ。その頃は「美しい」という感覚はわからなかったが、長い年月を経た今では彼の言っていた美しさを感じることが出来る。
 あの頃の主たちの世界は、小競り合いはあったものの、宝剣とされていた自分たちには実に穏やかな日々であった。

「だがな、過去は過去だ。俺は、今のお前と一緒に花見をしたい」
「……」
「……。空気がまだ冷たいな。身体は冷えていないか? 骨喰」

 返事を返さない骨喰に三日月は苦笑しながら、惜しむように手を離した。

「……少し寒い。部屋へ戻る」

 ようやく夜明け前の空気の冷たさに気がついたかのように、骨喰が自分の肩を抱く。今まで握られていた手は温かかったが、他の場所に触れてみればかなり冷えてしまっている。

「俺の部屋で休んでいくか」

 三日月が口元を袖口で押さえ、人一人分開いたままの障子の中を示す。骨喰がそこを覗いてみれば、まだ布団が敷いてあった。
 三日月の起床時間は先程自身が言ったように、早い。目を覚ますと庭に面した障子をわずかに開け、切り取られた風景から白んでくる朝の空を眺める。それが、いつしか日課になっていた。
 ただいつも違っていたのは、骨喰がその風景の中に現れたこと。
 長らく慈しんできた存在であるにも拘わらず、一瞬で目を、心を奪われた。それほど見事な情景だった。

「兄弟が起きて、俺がいないとわかったら心配する」

 首を横に振った骨喰が兄弟と呼ぶのは、同じ粟田口吉光作の薙刀直しの脇差、鯰尾藤四郎のことである。
 彼は大坂夏の陣で焼失し、記憶がない。しかし、そのことを前向きに捉え、後の明暦の大火で焼失して同じように記憶を失った骨喰とよく一緒に行動していた。
 骨喰と鯰尾は同じ部屋で寝起きをしていて、まだ寝ていた彼を起こさないようにそっと抜け出してきたのだった。世話焼きの彼のこと、隣の布団がもぬけの殻と知ったら、脇差の屋敷だけではなく本丸中を探し回ることだろう。
 断られると分かりきっていた三日月ではあったが、実際に口にされると思うのは別で、ほんの少し残念そうな表情を浮かべる。

「そうだな。だが、一人寝は寂しいものでな、たまには部屋に遊びに来てくれるとありがたい」
「……善処する」

 三日月が浮かべた寂しげな表情に、骨喰の胸は微かにちくりと痛む。
 通ってきた庭ではなく渡りを通って部屋に戻るため、縁側に上がると、同じように立ち上がっていた三日月が小指を差し出した。

「改めて約束をしようか、骨喰。次の満月に二人で藤を見に行くという約束だ」
「……」
「おや? これも覚えてないのか? ははは、こうするのだ」

 そう言って、眺めているだけだった骨喰の右手を持ち上げ、小指以外の指を握らせる。そこに、同じようにした自分の小指を絡めた。

「これは指切りという。これをしたら、必ず約束を守らなくてはいけないのだ」
「……そうなのか。分かった、約束した」

 上下に振られる互いの手を見ながら、骨喰は頷いた。
 そんな彼を微笑ましく見つめる三日月の後ろで、空が新しい朝の来訪を告げていた。





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 今思ってみれば
 どれほどまで強く結びついているのだろうか
 遠い過去から繋がり、遥か未来へと続いていく
 ───これが「縁」というものなのだろう



* * * * *



 三日月宗近が何度も出会いと別れを繰り返すことになる男に初めて出会ったのは、足利家の宝剣として、既に長い年月を過ごしていた時代のことである。
 その男の髪は白く豊かで、毛先に向かい紫色へと変化している。珍しい色のそれを背の中程で緩く結び、無造作に流していた。淡い藤色の直垂に包まれた身体は、優美な唐織物が勿体ないほどに、しっかりがっしりとしている。 
 何よりも印象に残るのは、両の目だ。高純度の紫水晶を思わせるそれは、何物に染められることなく清く澄み渡っていた。
 大友家から足利家へと献上された薙刀は、宝物庫にいる付喪神たちの目を非常に惹きつけた。

「骨喰藤四郎。切る真似をしただけで骨を砕くといわれることから、この名が付いている。これからよろしく頼む」

 骨喰と名乗った新入りの薙刀は、人の良さそうな笑みを浮かべながら、宝物の代表として対面した三日月へと差し出した。しかし、彼は動かずその手を見るに留める。
 この頃既に「天下五剣」と呼ばれていた三日月だが、刀剣としてはまだまだ年若い。しかし、その肩書きにより、自分を手にする人間達や刀剣の付喪神達から、崇められ礼賛されることに慣れきっていた。そうされることが、当たり前と受け止めていたのである。
 しかし、この目の前の男はどうしたことだろう。
 些か彼の態度に三日月は拍子抜けをしてしまった。ひょっとして、彼は自分が「天下五剣」と教えられていないのであろうか。
 三日月は、良くも悪くも「天下五剣」の一振り、「名物中の名物」と言うことに、矜恃を抱いていたのだ。

「天下五剣の一振り、三日月宗近だ。こちらこそよろしく」

 いくつも疑問が残ってはいたが、骨喰も宝物として献上され、これからも顔を合わせていく相手。対面当日に問題を起こしてもいけないと、不作法者の薙刀と同じようにゆるりと腕を上げた。
 月の浮かぶ瞳を細めながら手を差し出したが、自分から握ろうとはしない。彼の内側にある自身を誇るプライドがそうさせていた。
 されども、三日月の考えは、彼には伝わらなかった。
 長く重い薙刀を扱う骨喰の手が、精巧な細工を思わせる三日月の手をやんわりと包み込む。気持ちがすれ違ったまま二人は握手を交わした。
 三日月が視線を男の横にずらすと、彼の持つ薙刀の柄が目に入った。そのまま視線を上げていく。
 大きく反り返った刃は薙刀特有もの。樋に見事な倶利伽羅が彫られている。付喪神である彼の身体にもその龍が描かれているのだろう。

「薙刀か。大きいな」
「戦のための薙刀だからな。実戦に耐えられるように作られている。あんたは……まさに宝剣という風体だな」
「……」

 自身である薙刀から三日月に視線を移し、骨喰は笑いながらそう言い放つ。
 彼の言葉は、単純に三日月宗近という刀と付喪神の姿を見て思ったことである。なんの嫌味も含んではいないし、そんなつもりも毛頭無い。
 しかし、三日月自身は刀として生まれながら、武骨な薙刀の言う「実戦」に耐えられないような細身の身体に、多少ならず引け目を感じていた。
 「天下五剣」ともて囃されても、芸術品、美術品としか存在出来ない劣等感は心の奥底に居続けている。

「気を悪くしたか。すまなかったな」

 希少な刀の付喪神の変化を察し、やってしまったと苦笑いを殺しながら、骨喰は謝罪を口にした。

「構わん。以後気を付けてくれ」

 とげとげしい返事をする三日月。初対面の付喪神に自身の深淵を覗き込まれた事に苛立ちを覚え、いつも座している位置へと戻ってしまった。

「あいわかった」

 これ以上の謝罪を拒絶する相手に、骨喰は相づちを打つことしかできなかった。