◆1.もどかしい距離
何故このような事になっているのだろうか───。
守形英四郎は改めて状況を整理する。
そもそもの始まりは、新たに落ちてきた?エンジェロイド、アストレアの桜井智樹抹殺計画を五月田根美香子が手助けすることになったことだ。
初対面で恐怖を植え付け、適当にそれらしい言葉を並べ、効果の怪しい修行を経て自分の玩具へと仕立てあげていく。結果、いつの間にか美香子はアストレアから「師匠」と呼ばれるような関係を築き上げていた。
こうして新しい玩具(アストレア)を手に入れた美香子は、暇潰しに務めていた英四郎の助手の辞表を出したのだった。英四郎としては、正式に助手とした記憶はない。
そして、智樹を抹殺するために相応しい日本古来の「合戦」と開催した。それは全校あげての男女対抗雪合戦。
負けた方が勝った方の言うことを一日聞く───。
主催であり女子軍を率いた美香子が提案した賞品で、男子軍はいとも簡単に士気をあげた。一日目はその男子軍の圧勝で幕は降りたはずだった。しかし、捕虜女子たちに対するあまりの低俗な行動がいわゆる「モテ男」たち───人数を考慮するに、おそらく違う男子も相当数含まれていた───の謀反を起こさせ、完全に油断したところに女子軍の奇襲、さらには、雪の精
そはだるまの出現により女子軍が勝利を納めたのだ。
負けた方が勝った方の言うことを一日聞く。そんな不利にも聞こえる条件でも、確実に勝利を手に入れる考えが美香子にはあったのだろう。智樹を始めとする男子たちは美香子が吊るした美味い話に見事釣り上げられたのだ。それは美香子の嗜虐心を満足させたに違いない。アストレアのことはどこまで覚えていたのかも怪しい。
賞品の通り、敗者(男子)は勝者(女子)の言いなりになる。その大半は壊した学校設備の修繕にあたっている。
そんな中、美香子は英四郎を指名し、温泉に一緒に入ることを望んだ。
それがここまでだ。
二人は一緒に入浴してはいるが、大分離れたところで英四郎が美香子に背を向けた状態にいる。
「……」
「……」
会話は無い。
少し前、美香子が何気なしに言った「まだ家には帰らないの?」から、英四郎が全てをはね除けて言った「帰る場所なんて無い」のやり取りで、完全に会話が途切れてしまったのだ。
美香子は英四郎が「守形」の家に帰れない/帰らないことを知っている。全て知っていて、「まだ家には帰らないの?」と言った。その言葉は、英四郎が「まだ」家に帰れることを示している。
気まずい雰囲気に包まれた露天風呂ではあるが、美香子の許可がなければ、英四郎が風呂から上がることは叶わない。まるで見えない鎖に繋がれているようだった。
英四郎は外に出たままの肩にパシャリと湯をかけた。
夕方、美香子の思いつきか、はたまた作戦か、掘り当てた温泉はすっかり見事な露天風呂になっていた。五月田根の若い衆が突貫作業で仕上げたのだ。
寒空の下奮闘した女子たちの慰労と思春期の男子たちをおびき寄せる餌として活用されたこの温泉。湯はまだ濁っているが、十分に機能している。所々に設置された淡い光とちらちらと降り続ける雪と露天風呂───とてもよい風情に英四郎は目を細めた。
だから、らしくもなく背後を取られた。
◆2.はじめてのひとりあそび〜みかくにんせいぶつへん〜
「あ、ニンフさんも雑誌とか読むんだ」
居間で雑誌を広げていると、遊びに来ていたそはらが隣に座った。にこにこと肘をついて身を乗り出して、雑誌を覗き込む。
「お洋服とか気になるもんね。また今度一緒にお買い物行こうよ」
「あ、これかわいー」と、モデルの女の子を指差す。ゆったりとしたチェック柄のワンピースにレース地のカーディガンを羽織った女の子だ。
私はそはらの方を見て聞いた。
「ねぇ、そはらはひとりえっちしたことある?」
「なっ!? 何突然言い出すの! ニンフさんっ!」
明らかに狼狽えて大声を出すそはら。きょろきょろと辺りを見回す。アルファーとトモキは一緒に買い物に出かけているから、私たち以外誰もいないんだけど。
「え、ほらここにあるから……何、いっちゃダメなの?」
ぺらぺらと雑誌のページをめくり、ひとりえっちについて書いてあるページを見せた。そはらが雑誌に目を向けると、顔を真っ赤にして半ば乱暴に雑誌を閉じた。
「そうだよっ! そういうことはいっちゃダメなの! とっても恥ずかしいことなんだからっ!!」
そはらの訴えに熱がこもる。
「そうなの?」
「トモちゃんにも言っちゃダメだよ? その……ひとりえっち……って言うのはその名の通り、一人でするものなんだから……」
確かにそうだわ。一人でするから、ひとりえっちと言うんだろうけど。
「み、見られたら……すごく恥ずかしいんだから……」
そはらは顔を真っ赤にしたまま、うつむいてぼそりと呟いた。何か思い当たる節があるのかもしれない。
「そはらはしたことあるの?」
「っ!! このお話はおしまい! ニンフさん、トモちゃんたちが帰ってくる前にこれ一緒に食べよう!」
そういって、持ってきていたケーキの箱をテーブルの上に置いた。
「いいの!?」
はぐらかされたけれど、甘いものの前には霞んでしまう話だわ。
私がこの雑誌を買ったのには理由がある。それは、トモキが言った「可愛い」の勉強をするため。
人間の女の子向けっぽい雑誌のでっかい見出しには、
「最強カワイイ宣言!!」
「ファッションから雑学まで、この夏最高のカワイイを手に入れる!」
と、ある。
ここまで書いてあるなら「可愛い」が何かわかるんじゃないかって思ったから、お菓子をいくつか我慢して雑誌を買った。
それにしても、可愛いの定義って何なの? テレビを見てても、昼ドラを見ててもその言葉だけが氾濫してて、よくわかんない。
実際雑誌を読んでもよくわからなかった。でも、試してみる分には良いかもしれない。もしかしたら、どれかトモキの心に引っかかるかも……。そう思って、雑誌を参考にしていろいろ服を選んだりしたけど、トモキからは特に反応もない。体のラインが出たパンツ姿でも、ふわりとした女の子らしいワンピースでも、何の変化もなかった。
雑誌にあったエクササイズは、エンジェロイドである私はやっても意味ないし、メイクは道具を揃えるのが大変。食事っていっても、食べなきゃいけないわけでもないから、きっと意味はない。
なら、最終手段しかない。
◆3.悪巫山戯幻想曲
守形英四郎はパイプ椅子に座ったまま、後ろ手に拘束されていた。
いつもどおり、新大陸発見部の部室の定位置でパソコンと資料を使い、作業をしていたところだった。
扉をノックする音がし、「英く〜ん、いる〜?」と、ゆっくりとした美香子の声がして答えようとしたときには、こうなっていた。
「……これは何の真似だ?」
特に焦った様子もなく、英四郎はまだ背側にいるだろう美香子に向かって言った。
くるりと回り、英四郎に姿を見せた美香子はプリティのコスプレをしていた。
プリティというのは、英四郎が所有している魔法少女のフィギュアの名前である。金髪のツインテールでオレンジと白を基調としたコスチュームを着ている。「一人で寂しそうだったから」との理由で、英四郎の助手を買って出たのは美香子であり、プリティのコスプレ姿でもってプリティ三代目……プリティ3号と名乗ったのだ。
流星の形をしたステッキを握りしめ、笑顔を浮かべている。
これは何か良くないことを考えている顔だ。
長年の付き合いで英四郎は確信する。逃げるにしても、腕を拘束されていて、動くことは難しい。
「英くん、最近ず〜っと何かしてるじゃなぁい?」
「それは興味深い資料を手に入れたからで……」
「だから〜助手としてはお疲れの、英……ん〜…マスター? にご奉仕しようかと思ったの〜」
英四郎の声を遮り、顔を近づけて言った。もちろん、満面の笑みである。
わざわざ名前の呼び方を変えたのには、「五月田根美香子」と「プリティ3号」を分けたかったからである。英四郎の幼馴染みの美香子が呼ぶ「英くん」は、助手として存在するプリティ3号には相応しくない。短時間で考え、イカロスたちエンジェロイドが使う、マスター呼びをすることにした。
暗幕で閉じられた窓際にある机と英四郎が拘束されたパイプ椅子の間に入り、膝をつく。
「マスターの体調管理も助手の勤めよね〜」
◆4.純真恋情夜想曲
桜井智樹は平和をとことん愛する男である。
朝起きて、ぼんやりとしながら着替え、幼馴染みである見月そはらに小言を言われながら朝食を摂り、登校して、退屈な授業を聞き、時には寝てしまい、お昼ご飯を仲間と一緒に食べて、下校し、夕飯を食べて就寝する。
そんな他愛もない平和を愛していた男である。
しかし、世の中は無常である。そんな男が愛していた平和は、空からの落下物(おとしもの)……エンジェロイド イカロスと出会ってから、智樹の手の届かないとても遠くへいってしまったらしい。智樹を取り巻く環境はこの出会いによって激変したのだ。
それでも、イカロスやニンフ、アストレアを受け入れ、以前あった平和ではないが、それなりの日常を感じられるようになってきていた。
そんな中の穏やかな夕食のはずだった。今日の夕飯は春巻き。そはらから教えて貰ったレシピでイカロスが作ったせいか、智樹にとってどことなく懐かしい味がしていた。
その春巻きを取り合って、ニンフとアストレアがテーブル上でケンカをしているのである。
「あーー!! もうっ!!」
いつまでも収まらないそのケンカを仲裁するべく智樹は声を上げた。
「ト……トモキ……?」
ニンフもアストレアも智樹の声に驚いたようで口論を止める。イカロスが心配そうに智樹を見つめていた。
「まったく! お前たちは飯も静かに食えんのか!! 春巻きは一人三本! そう決まってただろ!?」
腕組みをし、怒鳴りつける姿はまるでこの家の父親。家主である分、それはあながち間違ってはいない。
「でもでもっ! ニンフ先輩が私の春巻き食べたんだから!」
食に執着を見せるアストレアが反論する。春巻きは大皿の上に重ねられていた。一人三本とは決めていたが、ぴったり四人分十二本だったわけではなく、少し多かった。あとは食べたい人が食べればいい、そんな感じであった。
「何よ! 余りそうだったから食べただけじゃない。別にデルタのって決まってたわけじゃないわ」
アストレアは残るはずの春巻きは自分のと思っていたようで、最後の一本をニンフが食べたのが気に入らなかったようだ。そして、それにニンフはなんてことも無いようにあしらうが、何度も言われているうちに同じように反論してしまいケンカになってしまう。それが、いつまでたっても収まらない食事時のケンカだ。
再び始まってしまった口論に智樹は完全に腹を立て、黙って居間を後にした。その後ろをイカロスが不安そうな雰囲気を出して追いかける。
玄関で靴を履く智樹に声をかけることも出来ず、おろおろとしている。
「あ、あの……マスター……」
智樹とイカロスの背中、居間からはまだ二人の口論が聞こえる。智樹とイカロスが出て行ったことに気がついていないようだ。智樹は振り向かず、玄関の扉を開けた。
「少し散歩してくる。追いかけてくんなよ」
そう残して、家を出て行った。
イカロスは「追いかけてくるな」といわれたため、閉じてしまった玄関を見つめるしかできない。
ああ、マスターを怒らせてしまった。その原因を排除しなければ、きっとマスターは帰ってきてくれない!!
ぼんやりとした緑色の瞳が激しい赤色に変わる。イカロスは戦闘モードに移行した。そのまま、居間へ行き、静かに声を発した。
「ニンフ……アストレア……」
イカロスの恐ろしく静かな声に白熱していた二人は息を飲む。そして、その赤い瞳を見て戦慄した。
「ちょっ……アルファー……!」
「イ……イカロス先輩っ! どうしたんですかっ!?」
ニンフとアストレアはイカロスから距離を取るために少しずつ後退し、隣り合った。
「『どうした』……? 私とマスターが怒っている理由がわからないの……?」
イカロスの羽がばっと大きく広がり、永久追尾対空空弾アルテミスを発射した。
言っても分からないのならば、体で覚えさせなくてはならない。
超至近距離でアルテミスの目標とされた二人は声にならない叫びを上げ、抱き合うことしかできなかった。
田んぼが広がる道を歩いていた智樹の後ろで爆発音が聞こえた。ちょうどそれは智樹の家の方向で、状況が簡単に予想が付いてしまい、長く深いため息をついた。
「はぁ〜……外はこんなにも平和なのになぁ」
空見町は田舎で、智樹とそはらの家の周りは田んぼや畑が広がっている。夏の終わりが近づいて今頃は、まだ蒸し暑さもあり蛙の鳴き声もするが、秋に聞くような虫の声も聞こえてきて、季節の微かな変化を感じる。街灯も必要最低限しか付いておらず、道はかなり暗い。
出てきたはいいが、特に目的もない智樹はある程度行ったら戻ろうと思っていた。
ふと視線を上げると、大きな鳥が空を飛んでいった。方向は大桜。今は夏だから、葉桜になっている空見町の名物だ。
その正体を確かめるため、智樹は大桜へと足を向けた。
◆5.Shotgun Wedding
桜井智樹たちと食堂での昼食を終えた守形英四郎と五月田根美香子は、そのまま新大陸発見部の部室へと向かった。
人気の少ない部屋が並ぶ場所にこの部室はひっそりと割り当てられていた。そもそも、ここは美香子の生徒会長としての権力と権限で与えたものなのだが。
常に暗幕で日の光を遮っている部室は昼間でも薄暗い。英四郎の持ち込んだ資料で埋め尽くされた部屋はまだ見ぬ「新大陸」への研究室なのである。
英四郎は定位置である窓側の机の前にあるパイプ椅子を引いて座る。この部屋に用意された椅子はそれだけ───畳まれたものが、「何処か」には存在するが── で、その後ろからついてきた美香子は、その隣まで歩き、机に軽く腰掛ける。
ぱちぱちと英四郎がパソコンのキーを押す音が静かに響く。その間、二人に会話はない。そういうのが自然なことなのだ。
午後の授業開始のチャイムが鳴り終えたところで、英四郎はパソコンから顔を上げた。
「授業が始まるぞ?」
淡い色のリボンでまとめられた髪をかき上げながら、美香子は微笑んだ。
「それは英くんも一緒でしょう〜?ダメよ〜サボりなんて〜」
そういってはいるが美香子がそこから動く気配はない。
「この時間は自習になった」
「そうなの〜?」
教師が休んでいて五時間目の授業は自習になると、朝のHRで伝えられた。
学生の本分は勉学だが、英四郎にとって現在の授業はとうの昔に済んでいて、退屈なものでしかない。それならば、自分の新大陸への研究を進めたいと思っている。ただでさえ、空見町の空に停滞している黒い穴───「シナプス」という場所はとても興味深く、研究しがいのあるものなのだから。
美香子からの返答は実にあっさりしたものだった。それは、美香子はそのことを知っていたからだ。
英四郎と変わらないくらいの頭脳を持つ美香子もまた、授業とは退屈で仕方のないものである。
授業は大人しく真面目に受けるが、どうにも頭が良い生徒という存在は教師自体がやりづらいところがあるらしい。それが、空見町を仕切る「任侠道(セレブ)」の娘であるのならなおさら。授業を潰してなにやらイベントを起こす美香子に教師陣が口を出さないのにも、この辺りに理由があるのだろう。
そういうわけだから、授業をサボったところで美香子を咎めるものは誰もいない。
「お前は違うだろう」
「え〜どうだったかしら〜」
「……まったく」
軽い声質でしらを切る美香子に英四郎は眼鏡の橋を押し上げて、パソコンへ視線を戻した。
「ね〜え、英くん」
キーボードの上をせわしなく動く英四郎の手に美香子の手がそっと重ねられる。
何事だ?と顔を上げると、微笑みを湛えた美香子がいた。
「英くんのクラスは自習なのよね〜。じゃ〜あ、私と一緒に自習しましょ〜」
「だから俺はこうやって……」
「じゃなくて〜、もっと楽しい自習よぉ」
楽しそうに弾んだ声で英四郎の言葉を遮る。しかし、その先は言おうとしない。
重ねられた白い手を見つめる。英四郎のものより一回り小さく細い白い手。そんな白魚のような手の握力が400kgもあるなど誰が想像出来るだろうか。そもそも、彼女の身体能力は謎すぎる。
英四郎は重ねられた手を握りかえし、半ば強引に自分の方へと引き寄せた。