夢で溺れた魚




 どうしようもなく苦しい現状を一刻も早く終わらせるために、彼女は必死に水をかきながら進む。
 リズムも呼吸も全てが噛み合っていない。けれども、泳ぎ続けなければこの苦しみからは解放されない。
 何度も蹴り飛ばし、ようやくゴールとなった壁が見え、最後の力を振り絞ってスピードを上げる。

「っぷはぁっ!!」

 叩きつけるようにタッチし、プールの底に足を付いて顔を上げる。息を荒くしながら高柳翠はゴーグルを取り去った。
 ここは翠の通う高校の屋内プール。現在は水泳部の部活動中で、彼女の隣のレーンにも同じように練習に励んでいる生徒がいた。
 夏に近づきつつある太陽の光が水面がキラキラと煌ている。

「んー……」

 翠がプールに入ったまま見上げるのは、飛び込み台に座っている、ストップウオッチを持ったマネージャーだ。タイムを計測していたのだが、その顔は浮かない。
 言葉に出されずとも、結果が思わしくないのが翠にも伝わってきた。泳いでいた自分自身もいいタイムなど出ていないことが分かりきっていた。

「あとちょっとなんだけどなぁ。もう少しタイム縮められれば、選出は確実になるんだけど……」
「……」

 予想していたとおりの言葉に、口元まで水の中に沈む翠。心得ているからこそ、それ以上は聞きたくなかった。
 来月末に行われるのは県大会で、関東大会へはそこで決勝上位三位に入る必要がある。決勝八位まで出場可能であるが、四位以降は関東大会の標準記録を突破していることが条件だ。
 当然その先には全国大会───インターハイがあり、設定される標準記録はさらに早くなる。
 今の翠の記録ではインターハイは愚か、関東大会への最低タイムも切れていない。

「フォーム見直してみるとか、基本に返ることで何か変わるかもしれないからね! 頑張ろう!」
「はい……」

 翠を励ますように笑顔とガッツポーズを見せる同学年のマネージャーに、こくりと力なく頷いて見せた。
 後に泳ぐ部員もいるため、早々にコースロープをくぐりプールを上がる。プールサイドに置いてあったバスタオルを身体に巻き付けると、柔らかな温かさが心地よく感じる。

「はぁ……ったく、どうすりゃいいの」

 ぽたぽたと床に垂れる雫をぼんやりとした目で見ながら、ぽつりと呟いた。
 翠は自由形を得意としていて、この高校二年間メドレーリレーのメンバーにも選出されている。今年も有力とはされているものの、最近のタイムは芳しくない。
 翠は既に高校三年生。今年の夏の大会後に引退となる。
 だから、焦りがつのり余計にスランプへと陥る悪循環になってしまう。

「翠ー!!」

 沈んだ声の翠とは対照的に、明るい声が彼女の名前を呼んだ。
 半ば反射的に声の聞こえた方へ向くと、駆け足気味
で駆け寄ってくる友人───前田奈々(まえだなな)の姿が見えた。
 プールサイドを走るのは危ない───と、小学校の頃に習わなかったのだろうかと翠は思う。同じように肩にタオルが掛かっている様子を見ると、タイム計測が終わったのだろう。
 どの種目もそつなくこなす彼女だが、こと背泳ぎで奈々の右に出る者は水泳部内にはいない。当然ながら、翠と同じようにメドレーリレーのメンバーに連続して選ばれている。今年の大会でもそれは確固なる物だった。

「明日行くでしょ? 水族館」

 翠の前に立った奈々が、にこにこと楽しそうに話す。
 そう言えばそんな話をしていたなと翠は思い出した。なんでも、知人に入館割引券を貰ったとかで、他の部員にも声をかけていた。

「あー…」

 成績がふるわない状況でそんな観光地に行く気分にもなれない。そう、翠は声に滲ませるのだが、彼女には通用しなかった。

「行こうよ。気分転換にもなるし、たまには遠出もいいって。帰りにはケーキバイキングも行くよ!」
「遠出って、電車で三駅だし、バイキングに興味移ってない?」
「気のせいだし、電車で三駅でも立派な遠出! とにかく、明日は九時に駅。わかった?」
「はぁい」

 念を押すように指を突きつけられながら押し切られ、翠は覇気のない返事をするのだった。